写真の本の著者の米原万里さんは2006年に逝去された、ロシア語通訳・作家である。まだ私が実家にいた頃、父が「不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か」というタイトルの本を買って来てくれたことがあった。そのときは「なんか変なタイトル」と思っただけで、興味がなくて結局読まなかった。その後時は流れ、2021年の今、米原さんの書いた本をひょんなことから手にして、今度はグイグイ引き込まれてしまった。「不実な美女と貞淑な醜女(ブス)」というのは、話し手の意図を外れてしまっているけれども聞いている方には聞きやすい訳と、話し手の意図に忠実だけれども聞いている方には聞きにくい訳、という通訳上の問題を女性にたとえて表現している。この例え方の妙でわかるように、米原さんは本当に言語表現が巧みで、ユーモアに溢れてパワーのある素敵な方だったのだということがわかる。米原さんはまだ「ソ連」という国が存在していた頃に、チェコで小学校時代を過ごした体験がその後の人生を決することになったわけだが、彼女の著作はあの時代の歴史をもの語るもので、この先も読み継がれるに違いない。
話は変わるが、なぜ私がいまになって、米原さんの本をこれほど熱心に読むようになったかというと、自分自身も仕事としての通訳業というものを体験したからに他ならない。そして米原さんの本を読んで、自分の医療通訳体験を語ってみたくなった。自分の経験は人に語るようなものではないと思っていたが、体験談は案外面白いものなのだな、と米原さんのエッセイの数々を読んで気付いたのだ。
私はタイ人である夫とともに、結婚と同時にタイのバンコクへ2003年に移住した。日本の病院で看護師として3年と少しの間、働いたあとだった。なぜタイへの移住を決意したのかということは、当時自分が病院での仕事に対して感じたことと関連しているのだが、それは長くなるので今回は書かない。ともかく、日本を離れ、日本の看護師免許をある意味で「捨て」、タイでタイ語を身につけて通訳・翻訳家になろうと決意してタイへ渡ったのである。日本には、自分がやりたい仕事はない、と思いつめていたところに、運よく結婚話が舞い込んで、タイへ連れて行ってもらった、と言うのが本当のところかもしれない。
それほどの決意でタイへ渡ったので、半端じゃないくらいタイ語を一生懸命勉強した。ほどなく長女を授かったが、つわりの時だけタイ語学校は休んだものの、妊娠期間中に主要なタイ語コースは終えて、かた言のタイ語を使って、自分でタイの産婦人科を受診することができるくらいになっていた。外国語学習というのは、まずは相手の言っていることがわかるということが一番先だと思う。そのタイ語学校は徹底して「聞くこと」を強化する学校だったので、このことが私のタイ語人生を後々まで助けてくれた。
長女も無事出産し、私たち夫婦は実家を離れ、当時大学院に通っていた夫の大学(タマサート大学)のそばの小さなアパートで3人で生活するようになった。それはチャオプラヤー川のほとりにある小さなワンルームアパートだった。3人家族にはあまりにも狭い間取りだったが、ロケーションは最高だった。今でも目を閉じてあの時を回想すると、舟着き場の老若男女の賑わいや、船から降りる時のディーゼルの吐き出す臭い、朝ふんわりと匂ってくる、中国系屋台のおかゆ(タイ語ではジョー(ク)と言う)の香りと光景が脳裡に浮かぶ。言葉がよく通じない日本人の母とよちよち歩きの小さな女の子に、アパートの住人や下町の住人はとても優しく、いつも何気なく言葉をかけてくれた。少し歩くと、静かなお寺や小さなお店が沢山あって、ココナッツやバナナの木が実をたわわにつけて、平和な時間が流れていた。
一方現実的には、夫が大学院に没頭していたので、うちにお金というものが入ってこなかった。経済的なこともあるし、私はもともとタイでタイ語を使って新しい仕事に就くことを目指していたので、求人広告を毎日チェックするようになった。そこである新聞広告に目が釘付けになった。
その新聞「マティチョン」は、タイ人のどちらかというと高学歴な人たち向けの新聞で、普通はタイにいる日本人は読まない新聞だった。日本人駐在員は、タイ文字は読めない、あるいはタイ語が全くできない人が少なくない。読む新聞は英字新聞だったり、タイに移住した日本人が発行している日本語の新聞で十分ことが足りる。だから日本人向けの求人が、その新聞に載っていることがそもそもおかしいのであるが、その貴重な求人広告をたまたま発見したのだった。
その求人は「日本人の病院通訳募集」の一言だった。その当時私はタイに2年半滞在したところで、タイ語の勉強は終了したが実践がほとんどできていない素の状態で、買い物程度の会話くらいしかできなかった。しかし自分の日本での看護師経験が活かせるかもしれないと思い、通訳に応募したいと電話をかけることを決意した。しかし対面で話す時でさえタイ人の言うことはよくわからないのに、電波が悪い電話でタイ語で病院に電話をかけて通訳に応募したい、と言うなんて、そんな無茶苦茶なことが可能だろうかと、電話の前でどれくらい逡巡したかわからない。小さな娘がいると集中できないので、確かその時は誰かに娘を見ていてもらったような気がする。しかしその当時そんなことを頼める人がいたとしたら、アパートの警備のお兄さんか、アパートの下でお店を営んでいる中国系の家族だけだったはずである。夫は日中はほとんどいなかったのだから。そういうことを頼んでも、「いいよいいよ」と彼らは快く預かってくれる人たちだった。それに何より、私は図々しくて楽観的なので、深く考えずお願いしたのだと思う。電話を早く済ませなければいけないのに、緊張して心臓はまるで早鐘のように打つ、やっぱりよそう、という迷いの間で揺れた。でも、そう何回も娘を頼めないし、とにかく仕事が欲しい。それで意を決して電話をかけたのだ。
プルプルプル
「はい、シーラーチャー総合病院です!」
「こんにちは。あの〜、私は日本人ですが、日本人通訳に応募したいのですが‥。」
「日本人通訳ですか?お待ち下さい。」
「え?あの、何ですか?」なんだかよくわからなかったが、一応通じたようで、回線をどこかに回してくれた。
「こんにちは!日本人の方ですか?…‥?」別の女性が出たが、学校で習ったタイ語と響きが違うので、何を言ってるのか全然わからない。仕方がないから、何となく誤魔化して用件を繰り返す。
「こんにちは。あの〜、私は日本人ですが、日本人通訳に応募したいのですが‥。」
「そうですか!」
電話の主は、人事部長のピクンさんだった。ピクンさんは、本人は知らないと思うが私は自分の人生の恩人の一人だと思っている。ピクンさんは、私に小さな女の子がいて、日本では看護師をしていて、病院通訳をしたいと言う申し出に、まだほとんど何も知らないのに即答で「ぜひ来てほしい!」と言ってくれた。その電話で初めてわかったのだが、その病院はバンコクではなくて、チョンブリー県(タイの東部でパタヤ方面)のシーラーチャーという町にある病院だった。日系会社の工業団地が近くにあるので、日本人駐在員が多く住むところで、その病院も増え続ける日本人患者のために、日本人通訳を初めて雇うことにしたということだった。タイの地名や地理を全く知らなかったために、新聞に書いてあった住所がバンコクでない、ということにさえ私は気づかなかったのだ。
しかし「え?バンコクじゃないんですか?」と電話口で答える私に、全く動じなかったピクンさんである。ピクンさんは、日本人向けのサービスアパートが近くにあるからそこに住めばいいし、病院の近くに1歳の娘を預かってくれる小さなナーサリー(保育園)があるので、フルタイムで働くことができると、力強く説明してくれた。ものすごい早口に面食らったが、それくらいは何とか聞き取ることができたのだ。それでぜひ見に来てほしいというその言葉に導かれ、私の心はすでに決まっていた。夫をバンコクに残し、母子でシーラーチャーに移ることを決意したのだった。夜遅く帰って来た夫に説明すると、容易にウンとは言わなかったが、とにかく週末に一緒に見に行くことには合意してくれた。
それで週末を利用して、私たちは初めてタイの長距離バスというものに乗り、旅行で行ったピーピー島以外のタイの「普通」の地方都市へ行くことになった。バンコクは首都であるし、近代化してなんでも揃っているから、やはり特殊なのである。2時間半くらいの時間、バスに揺られたのだが、車窓から見える景色から、タイは平地が多くて土地が広い、という印象を持った。実際タイは、日本の国土よりも少し広い国土を持ち、人口は日本の約2分の1である。
長距離バスを降りてから、病院のあるところまで行かなくてはいけないが、タイではまだ普通のタクシーの他に、「サムロー」と言われる3輪のミニタクシーがあるので、流れてきたサムローをつかまえて病院に向かった。サムローは、客席は屋根とイスがあるだけの構造で外にいるのとほとんど変わらないので、街の様子はよく見えた。地方都市というよりは、小さな町であった。町の中心に市場や大きなデパート「ロビンソン」が一つだけあり、その近くに市立病院が二つあった。その私立病院の一つが、目指す就職先だった。この小さな町に、日本人がそんなに多く住んでいるということがとても意外に思えた。町はこじんまりとしていて、汚いわけでも、すごく綺麗なわけでもなく、タイの標準からいうと発展している方に属する小さな郊外の町、という感じだった。チョンブリー県の工業団地で働く日本人駐在員家族や単身者は、その町にある外国人用のサービスアパートに多く住んでいた。
病院に着いてからピクンさんを呼び出すと、ピクンさんはすぐに来てくれて、病院の中の人事部に通されて色々と話をした。何しろタイ語が仕事で通用するレベルでないのはわかっていたので、会話で「やっぱりこの人だめ」と思われたらどうしよう、と不安でならなかったが、ピクンさんは明るい人でそんな不安を吹き飛ばしてくれた。私のことをテストしようとする態度は微塵もなくて、むしろ最初から私が就職する気持ちになるように説得してくれているように見えた。病院の中を見せてもらってから、私と娘が住むための外国人用のサービスアパート、そしてナーサリーまで連れて行って見せてくれた。事前に全て問い合わせ済みで、すぐにでも入居・入所できるということだった。しかも給料は、バンコクで働くよりも断然高い金額を提示してくれた。ここまでの好待遇をしてくれた理由は、やはり私が日本の看護師免許を持って日本の病院で働いていた、というその経歴にあったのだ。日本を出るときに「捨てる」とまで思いつめていた資格であったが、タイへ来て私と娘を救ってくれることになった。
余談であるが、ピクンさんは元看護師で、病院のマネージメントをするために大学院を卒業し、現在は病院の中枢である人事部長の仕事をしていた。もと看護師が、看護の仕事から発展させて、マネージメントの仕事をするのがタイでは普通にある。日本の看護師より、タイの看護師の方が、そういう意味では社会的地位が高いと思う。看護師という仕事は、あらゆる人を対象に看護をするし、他職種の医療チームでの仕事を通して、高い対人関係能力と情報処理能力を身につけることができる。日本の看護師も、もっと様々な分野に進出していける力があると、私は常日頃思っている。
タイに来てからというもの、ひたすらタイ語の習得に明け暮れ、妊娠中も授乳中もいっときも頭から離れなかったのが、タイで通訳の仕事をしたいという思いだった。だからたった一本の電話で、私を通訳として雇うことを決めてもらったことに、私は本当に感謝して幸せを感じた。ピクンさんも、「日本の看護師さんが日本人顧客のサポートをしてくれる病院通訳第1号になる!」と病院スタッフに宣伝して、とても喜んでくれた。
ピクンさんから、何を見て応募してくれたの?と聞かれ、「マティチョンです。」と答えたら、ピクンさんはとても驚いていた。1年ちかく求人を載せたが、日本人から全く反応がなかったので、もうマティチョンの広告はやめるつもりだったらしい。しかし最後の最後で私を釣り上げることができたので、人事部長としての面子が立って大満足だった。
バンコクに一人ポツンと残される夫だけが曇り顔であったが、仕事をしたいという私の強い想いをわかっていたので、私の「子連れの出稼ぎ」に最終的には賛成してくれた。かくして、私の医療通訳のキャリアが奇跡的な出会いのおかげで、幕を開けた。
※次回は医療通訳の内容に入っていきます。
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