医療通訳編その1で、タイ東部のシーラーチャー市の病院で、医療通訳の仕事を得た経緯について話したが、今日はその後のことに話を進めたいと思う。バンコクで勉強中の夫を残し、母子でシーラーチャへ「出稼ぎ」に行くことを決意してからの私は早かった。翌月から勤務開始と決めたので、早速引越しの準備を進めた。病院の人事部長のピクンさんが手配してくれた通り、住居は病院から歩いて5分のところにある、日本人用のサービスアパートメントに決め、保育園の入園の手続きも済ませた。
保育園は小児科のクリニックの2階に併設されている、個人経営の保育園だったので即日入園することができた。利用料はそんなに高くなかったし、経営しているのは小児科のドクターと奥さんであるナースだったので、とても安心できた。それ以外に、実際の保育を担当するお姉さんが二人いた。日本では保育士の国家資格がないと乳幼児の保育の仕事はできないが、タイはまだそういうレベルではない。その二人は子育てが好きな田舎出の普通のお姉さんで、人件費はいかにも安そうだった。実際どれくらいかというと、こういった仕事の人たちに支払われる給料の額というのは、日本人には想像もつかないほど低い。おそらく月に9000円程度であったと思う。それで週6日勤務で、拘束時間も長い。ちなみに大学卒で一般企業に勤める新卒のタイ人の給料は、3万円を少し超えるくらいである。ちなみに私の病院通訳者としての初任給は、19万円であった。これだけでも、日本と違ってタイがいかに、貧富の差のある社会であるかを知ることができるだろう。
小児科ドクターはエカリン先生という名前で、奥さんは「チュです。」と自己紹介してくれた。もちろん「チュ」とはとニックネームである。タイでは、名前がサンスクリット語からとっていて小難しい名前が多く、その代わりに覚えやすくて親しみやすいニックネームを日常的に使うのが普通である。しかもそのあだ名が一音節のことが少なくない。これが日本人の私には、最初とても違和感があって、覚えにくかった。私がまだその文化に慣れなくて、「チュさん?」と変な顔をしていると、「キスの『チュ』ですよ!」と唇をキスの形にして説明してくれた。タイ人はこういうところが、可愛らしくて素敵だ。みんな「チュ姉さん」と呼んでいたので、私もそれからはそう呼ぶようにした。
チュ姉さんは、少し小麦色の肌の派手な顔立ちで、チークとアイシャドウをバッチリきかせた「ザ・タイ人女性」のお化粧とストレートロングヘアがトレードマークで、服装も可愛らしかった。その格好でエカリン先生の診療の補助もしていたが、看護師らしい白衣などを来ているのは見たことがなかった。以前は病院勤務だったと言うが、ユニフォームを着たくなかったのかもしれない。(これは私の勝手な推測)
チュ姉さんと私は、なんとなくウマがあった。やはり看護師は、看護の心というベースの価値観が世界共通のように感じる。
チュ姉さんがやっている保育園に入園できるのは2歳以下で、4人までだった。1階がクリニックで、2階が広い1部屋だけなので、もちろん園庭などはない。しかし日本のように小さな子が昼間お散歩できるような気候ではないから、これで特に問題はなかった。一番驚いたのは、「何にもしないで連れてきてください!」と言われたことだ。着替えだけは必要だったが、朝連れて行ったら、軽く朝ごはんを食べさせてシャワーをしてくれるし、お昼ご飯とおやつを出してくれて、午睡の後はもう一度シャワーをした状態でお迎えとなる。後年私は日本の認可保育園の保健師となるが、保育士たちのサービス精神のなさに仰天したのだが、それにはこういう経緯があるからだ。
初めての入園の日に仕事を終えて迎えに行ったら、シャワーの後に全身にベビーパウダーを振りかけられて真っ白になって、髪の毛をきっちり二つに結わえてもらった、初めて出会うような我が娘が現れた。私はパウダーを使ったこともなければ、長く伸びた前髪が邪魔だからチョンマゲ風に一つに結うだけだった。1歳2ヶ月の子もおしゃれに装ってくれようとするところに、タイ人の美に対するこだわりを感じた。それがいいかどうかよくわからないが、ともかく可愛がってくれることだけは確かだと思った。
「何にもしないで連れてきてください!」というチュ姉さんの言葉の通り、本当に娘はいつもほとんど起きたままの状態で保育園に連れて行かれることになった。異国でいきなり母子での生活になり、おぼつかないタイ語で初めて就職した私は、朝の時間は自分の準備だけで手一杯だった。
通訳の仕事を得たことも幸運だったが、なんでもやってくれる保育園と、歩いていける範囲に職場と保育園と住居が用意されていたこともまた、奇跡に近い幸運だったと言える。女性が家庭を切り盛りしながら、子育てや家庭内のことを満足いくレベルまでやるためには、職住接近は必要条件だと思う。男性を優遇する訳ではないが、やはり女性は子どもを産み落とし乳を含ませるという使命を負っているのだから、男女の役割が違ってくるのは当然だと思う。
いよいよ医療通訳としての勤務開始となった。私と同時期に、もう一人日本人女性の通訳が採用され、二人で日本人通訳部門を作っていくことになった。彼女は在タイが長い人で、家族もタイ人で言葉もぺらぺらの人だったので、何かと助けてもらった。何しろ私は、病院通訳はなんとかできるが、日常会話はほとんどチンプンカンプンで土地の事情も何も知らなかったから。
ここで、病院通訳の方が日常会話より難しいのではないか、と一般の人は思うかもしれないが、私にとっては逆だった。私は通訳を開始するにあたり、タイ語で書かれた看護学の教科書を読んで語彙を覚えた。看護学そのものは看護師である自分にはわかっているのだから、語彙さえ覚えればいい。医療の専門知識がない人にとっては、タイ語がわかっても、病気のことや治療のことがわからないと、真に理解するのは大変だろうと思う。しかし医療現場の手順や、一般的な治療のやり方や考え方が分かっていると、言葉がところどころわからなくてもある程度予測ができてしまう。それに患者さんの訴えることや気持ちも、そんなにバリエーションがある訳ではない。外来に来て不調を訴える患者さんは、発熱、頭痛、気持ち悪い、咳や鼻水がでる、ヒューヒューする、血圧が高い、くらいのものである。入院が必要となるような別の病気もあったが、それでも、日本の一般病院で見られる疾患ばかりで、大学病院レベルのものはなく、内容が限られていたのである。案外多かったのが歯の治療で、よく歯医者の外来からお呼びがかかった。
そしてもう一つ、私がタイの病院通訳をできた大きな理由がある。これは現代のタイを映し出す事情の一つでもある。それは、タイ人のドクターが華僑が多く、地元のなまりが全然ない標準タイ語を話してくれたからである。タイは半島なので、辺境のミャンマーやラオス、カンボジアから南下して来た人たちと古くから交流があったため、純粋なタイ人という人がそもそも存在するのかよくわからない。しかし例えば、私がタイ語を習った先生が、「僕は純粋タイ人。肌も黒いし、顔は丸くて、鼻ぺちゃ」と自嘲しながら「タイ的」であることを誇張していたことを思い出す。彼は東北出身のタイ人だった。「タイ的」な人には、確かに外見的にも特徴があるし、異なる言語や方言がある。しかしなぜか、勤めた病院の経営者から現場のドクターまで、ほとんどのドクターが華僑の子孫のようだった。記憶に残る限り一人くらいは、肌の色が濃くてちょっと違う雰囲気のドクターがいた。その先生のタイ語は、やっぱりちょっとわかりづらかった。
日本でも医学部に入ることができるような人は、塾に通ったり進学校に行くことができる、親の経済力というバックアップがある人たちである。タイでもやはり同様で、貧しい家庭出身者は、優秀であっても最初からチャンスが限られてしまい、医者になるのは容易ではない。そして現代のタイでは、お金を持っているのは華僑や、もともと資産や家名があるようなタイ系の人たちである。国を追われても今だに内政に影響力を及ぼす元タクシン首相も、一見してわかる華僑である。そんな訳で、華僑ドクター連中の、話し言葉と思えないくらい丁寧でスマートな標準タイ語に助けられて、私は通訳者としてなんとか面目を保つことができたのだ。
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